「被災地行こうよ。」と声をかけられたのは3.11から数週間が経ったくらいだったと思う。「へー行く行く。」と簡単に返事をした。
私たちは歌舞伎町で活動する仲間と共に2011年5月6.7.8と東北へ行って来た。グリーンバードのレポートというよりも個人的な想いも織り交ざってしまう備忘録としてこの場を借りたいと思う。少し長くなってしまう予感がする。
日頃デキルカギリなのにデキルカギリ以上になってしまうグリーンバードなみんなにも知ってほしくて、書いてみます。
そう、声をかけられて簡単に返事はしたものの、最初に思ったのは自分が行って一体どうするのか、一体何になるのか、ということだった。
あの日から毎日、世界が変わってしまったあの日から、昼夜問わずテレビから流れる続ける映像や週刊誌やネット、色んなものを耳をダンボにして吸収している環境の中では、自分達にできることなんて募金か想いを馳せるか、外食に努めるとか、そういうことで、それもあんまり意味ないんじゃないか、と言い出すひともいて、じゃあどうしていいのか分からなくてでも誰も教えてくれなくて、もう少し踏み込んでみたいけど、やっぱりどうしていいか分からない、そんな状態だった。
自分の生業であるお茶屋として温かいお茶を煎れればいいじゃないか、とも言われたけど正直お茶よりお水だろうと。この最中お茶を喜んでくれるひとなんていないと思ったし、いわゆる自己完結が求められる場でお水や機材を全て整えられるかも自信がなかった。
何より興味半分で行ってはいけない、自己満足になってはいけない、冷やかしになってはいけない、いけないいけない・・・そればかり考えていたら予定していたGWの終わり6.7.8はどんどん近づいていて、気づけばすぐそこだった。
そもそも声をかけてきたのは歌舞伎町チームでカメラマンとして、またよきアニキ・・・かな、お父さんじゃないな、として5年前のチーム立ち上がり当初から歌舞伎町のジャーナリストとしてお掃除に参加しているてらさんだった。てらさんとしては、仕事上もあって東北の現状を目で確かめたいという気持ちだったのだとう思う。その中で、日頃仲良くしている映像クリエーターやバーのオーナー、そしてわたし達に声をかけ結局10人が集まって行くこととなった。
お金を出し合って、キャンピングカーとバンにありったけの食べ物やお酒、物資をパンパンに詰め込んで出発した。節電で少し暗い歌舞伎町を出たのは深夜0時過ぎだった。
まず決まっていたのは「被災地で出張ゴールデン街をしよう!」と、てらさんが新宿の歴史ある飲み屋街「ゴールデン街」のバー「ビアンカ」のママに声をかけ、あとは避難所で映画の上映をしよう、ということだった。震災から2ヶ月弱、お酒といった嗜好品や映画などの楽しみがそろそろ必要な時期になっているんじゃないか、ということだった。
行く場所は宮城県の登米(とめ)と少し上の南相馬市で、南相馬市は原発の問題で良く聞く名前だったけど登米は読めなかったし両方がどこにあるのかもさっぱり分からなかった。
わたし一体どうしたいんだろうな、と考えている中、副代表の大澤さんに被災地支援をしているいくつかの団体を教えてもらった。その中をさまよっていてあるサイトに辿り着いた。「ふんばろう東日本プロジェクト」。これはスタッフが被災地に直接訪れて現地の声を吸い上げ、ネットに掲載、個人が直接個人へ足りないものを送るというプロジェクトだった。これは自分にとって本当に目からウロコだった。
避難所では物資が余っている、廃棄処分している、ボランティアは足りてる、等の情報が出ている中このサイトに載っている「被災地」の声は悲惨なものだった。
恥ずかしながら、石巻には芸能人が沢山行っているのをTVで見たし、なんとなく、家は壊れているけど避難所があるし、ライフラインもほとんど通っているのでしょ、と思っていた。
全然違った。急いでネットで地図を検索して、自分達が行こうとしている所がどれだけ海沿いなのかをやっと知った。二ヶ月が経とうとしているのに、ライフラインが通ってない地区が沢山あって、石巻の沿岸地区からは「お水をください」「洋服がありません」「食べ物がありません」そんな声が沢山あげられていた。(6月現在500カ所以上)そしてそれらの多くは避難所ではなく、認可されていない小さな避難所や半壊状態の2階部分にかろうじて身を寄せ合って住む「自宅避難者」からの声だった。
それからは自分が支援できるものがあるかチェックして送る、それを何回かしているとわたし達に出来ることはやっぱり「楽しみ」を持って行くことなのだと分かった。
マッチングサイトに東北へ行くことを書き込み、全国に物資の協力を仰いだところたった3日でダンボール10箱以上、10数人の方から反応をいただきお菓子やおつまみ、たばこやジュースが届いた。中には直接車で届けに来たひともいた。
被災地へ物資を送るとお礼の電話が絶対くる。電話がない地区からはダンボールのはじっこに「災害郵便」と真っ赤な字で書かれ切手がいらないハガキが届いたこともあった。ひとってみんなそんな強いわけない、どうしてこんな事が出来るのだろうと思いながら、車は7時間近く走り続けた。
先ず始めに宮城県登米についた。
少し内陸にある登米のこの大きな避難所には海沿いの南三陸からの避難者が集まっていて、ここでは子ども達へ映画の上映、炊き出しのお手伝いが予定されている。登米は内陸なので、家の崩れもなく見たところはのどかな田舎の風景が広がっている。ボランティアも何組か入っているようで、卵や調味料を届けた。
映画上映も何を流すべきかとても悩んだ。結局は寅さんとくれよんしんちゃん大人帝国を持っていったのだけど、荒波が写らないもの、子どもが死んだりしないもの、漁師が出てこないもの・・・。何をどこまでケアしていいのか分からず、レンタル屋をハシゴした。
もう一台の車でここから1時間ほどの海沿いの町、南三陸へ物資を届けにいった。届け先は魚やさんで、店は津波で流され、高台にあるご自宅を倉庫として地震直後から物資を募り、車で各方面に配り回っている三浦さん。ここもふんばろうのサイトで見つけ連絡を取ったのだが、登米を出て気心知れた数人で車に乗ったせいもあって途中道の駅で海の幸たっぷりのうにごはんやほたてかき揚げなんかを買って腹ごしらえをした。三陸の海産物にはしゃいでいた。
お弁当を売ってたおじちゃんに「これは去年の冷凍のうにや帆立。もう在庫がなくなるから、このお弁当は二度と出せないんだよ。もう採れないからね。」そう言われて我に返った。
その道の駅を過ぎて曲がった道を抜けた途端に広がった景色、そこはなにもなかった。緑もない、赤もない、グレーと空の青い色だけ。「テレビと同じだ・・・」そう思った。毎日テレビで見ていた津波で流された町、ガレキの山、それが目の前に広がっていた。車内はみな黙ってしまった。
5階くらいあるビルにささったままの船。おもちゃみたいにころんとそこら中に船が転がっている。玄関だけ残った家や、なにかがあったであろう痕跡は見えるけど、この地に来たことがない自分にとってはそこに町があったことはどうしても想像できなかった。
三浦さんの倉庫には全国から物資が大量に届いていて、この日の午前中は近所の人に声をかけ物資を配布している最中だった。倉庫には仕分けが追いつかないほどのありとあらゆる物資があったがこれでもいつもより少ない方だと聞いた。持ってきた物資を渡し、仕分けの手伝いをして登米へ戻った。
次の日は石巻の渡波(わたのは)地区へ行く予定だった。
かのサイトで見つけた渡波に住むおとうさんと連絡を取っていたのだが、お酒をとても楽しみにしてくれていることが分かったので急遽夕方から渡波へいくこととなった。
この時点でまだ、渡波を「となみ」と読んでいた。方言があまり聞き取れないけど、来てくれることを喜んでくれてそうな雰囲気が伝わった。渡波に住むもうひと家族もサイトで見つけて連絡を取っていたので、お酒を待ってくれているおとうさん、亀山さんの家に皆集合ということになった。
渡波は夕方近くだったせいもあって、人もなく、潮とそこら中に転がる黒く腐った魚の臭い、よく分からない臭いで充満していた。風が轟々と吹き砂が荒れ散り、マスクと眼鏡がなければ立っていられないくらい。時折すれ違う車は、こんな荒れ地をどこに行くのか、もうない家を見に行くのか、きっと対向車もそう思っていたに違いない。
南三陸では直視できなかった景色が、ここで一呼吸置いて目に入ってきた。林も電柱も残っているものは同じ方向に傾いている。通りは車が通行出来るようにガレキが寄せられているけど片づいている訳じゃない。家の住人か、誰かが掘り出したのだろうか、更地のあちこちにお茶碗や、賞状、アルバムのようなものが置いてある。
ここに家があって、家族があって、笑い声があったんだ。月並み過ぎるけどそれしか思えなかった。いくらがんばろうって言ったって、これじゃ頑張れない。終わった。そう思った。
亀山さんは大きく手を振って、「こっちだよー」と私たちを迎えてくれた。少し上がっている玄関のおかげで一階は流されたけど二階が無事で住んでいるという亀山さん。暗くなって風が吹き荒れるのを心配して、一階にあげて下さった。出張ゴールデン街の始まりだった。
テーブルと椅子を車から出して、お酒やおつまみも運びいれ、ガスコンロで料理もする。気づけば近所の方が20数名集まっていた。家の前で広げた物資には通りかかる車からも人が集まり、お菓子やジュース、Tシャツや果物はほとんどなくなった。
ここからは自分がその時つぶやいた「ツイッター」から書いておこうと思う。
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奥様を亡くしたおとうさん、行きつけのバーとマスターを亡くしたおとうさん支えるたくましいおかあさん達、まだ水も電気もない場所で生活している、
何もなくなった自宅にみなが集まってお酒を飲むなんて、前に戻ったみたいだと、もう二度とないと思ってたって
飲み会をしている時、おかあさんがおとうさんに新宿のスナックが来たみたいでよかったなぁと笑ってくれました。新宿のおねえちゃんたちが来たよと。そんなでよかったらいくらでもお酌するしおしゃべりする
こんなに楽しいからいま地震がきて死んでもいいと言ったり、もう壊れてるからぶつけてもいいとか、初デートみたいに私達が来るのを待ってたとか、水がないからアル中になろうとか、ユーモアがフル作動してた。
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少なくとも自分はその時必死で、会話を探して、普通を努めて話していた。来てはみたものの、じゃあ何を話せばいい?カウンセラーの真似をして、心を癒やそうなんて思っちゃいない。ただ、ただ、いつも歌舞伎町で飲んでいるみたいに、騒いでるみたいに、お酒が大好きなひとと、くだらないおしゃべりをすればいいのか。分からなかった。おとうさんも日本酒を空けて、軽快に話し始める言葉を聞いたり、たまに出てくる、震災当日の話し、そういう事を聞きながら笑って過ごした。みんなこれでもかってくらい大声で笑ってた。
プロジェクターと発電機も車から出して、寅さんを写したり(これはテレビを震災から一度も見ていないということで大変喜ばれた)ipodで歌謡曲を流したりした。北島三郎と八代亜紀は入れてあったので少し酔ったおとうさん達と少し歌ってみたりもした。
3時間はあっという間に過ぎてさようならの時。
皆酔ってるせいもあって、なかなか別れが辛い。握手をしては、「また来るね」「ありがとう」の繰り返し。「こんなんじゃなかったら、本当だったら泊まってほしい」とおかあさんに言われた。東北出身の仲間が言ってた。「東北の人は誰が来ても来なくても大広間に沢山の料理とお酒を用意して、騒いで歌って、布団をしいて寝てもらうものだ。」と。
奥様に言われた。「おとうさん、影で泣いてたのよ」って。戦争も生き抜いて、時代を生き抜いて、いまやっと老後の生活をゆっくり送れるおとうさん達がなぜ泣かなきゃいけないのか。若い自分が代われるならば、涙を代わりたいと思った。
真っ暗な路を仙台に向けて走る。だんだん灯りがついてきて、2時間位で仙台に着いた。
仙台でスーパー銭湯をみつけて、すき屋で飲んで、マンガ喫茶で数時間だけ寝た。2時間先にある場所の出来事が信じられなくて、頭が混乱した。
3時間ほど寝て朝。最終日。
ここからは2チームで別行動。てらさん達は南相馬へ行き映画上映。わたし達3人は、少しだけ残る物資を持ってまた渡波へ戻ろうと決めた。渡波と少し先の女川の住宅を周り、また行商の様に物資を広げては移動の繰り返し。
何かしないと気が紛れなくて、ツイッターに書き込んだ。
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一日お弁当ひとつふたつ、物資も取りに行けない、配られない、水電気ないひと配られないたちが半壊の2階に住んでいるか昼だけ家の片付けに戻るそう
牡蠣の工場で地震にあってから津波で逃げて長靴まえかけ、今もそのままの格好しかないのよと笑うおかあさん。
地震直後なにも情報がない中、東京の親戚から津波が来るらしいから逃げろとメールが来て助かったひと、逃げたので津波に遭遇してしまったひと。運だよとおとうさんが笑うんだ。
ぼこぼこの道路、瓦礫の住宅街の交通整理のおじさんも着の身着のままだと女ものでもなんでもいいとTシャツを持っていった。、。
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昨晩とかわり太陽が差し込む昼間の渡波地区だった。
全壊の家を除き、ほとんどの半壊の家を家族総出で片づけをしている。自分たち用に持ってきた水もお菓子も、長靴も軍手もゴミ袋も、ティッシュももう、全部出した。何も足りなくて申し訳なくて、車にあるもの全部出した。
わたし達をみかけて、自転車でやってきたおかあさん達は怒っていた。物資配布をなぜ知らせてくれないのかと。事情を説明すると分かって下さったが、大きな団体の物資配布や、自衛隊の炊き出しの情報も自宅避難者には届かないのだという。情報をどうやって受け取ればいいのか分からないのだ。
若い人はほとんど他県へ避難。年配者は情報からすっぽり漏れていた。
女川では雨が降っていた。
昨晩のお父さんが行ってきなさいと言った場所。原発が落ちたみたいだよと教えてくれた。渡波の何もない更地と違って、流され切れなかった建物が爆破されたみたいに廃墟のような海沿いだった。
途中、雨の中何人かを車に乗せた。
避難所へ帰るというおばあさんの言葉。「あまり近くまで送ってもらうと噂をされてしまうから遠くで降ろしてください。」被災して、避難所でのなおさら狭まるコミュニティー。昨晩の様に半壊でも自宅が残ってるひとは、いくら明日の食べものがなくても避難所で余ってる物資を分けてもらいに行きづらい。避難所にずっといれば生きていけるけど生活はできない。双方の現実がみえたようだった。
全ての物資を配り終え帰路についた。
気を紛らわそうと、途中サービスエリアでお土産を買った。都内に入るとなんだか泣きそうだった。洗車して、家について、缶酎ハイを飲んでたばこを吸った。嘘みたいな、ほんとの現実だった。
次の日の月曜日、いつもの様に満員電車に乗って会社へ行って、歌舞伎町の街を眺めた。ストリートビューで行った場所を見たら、普通の町が広がっていた。東北へ行った事をどう話していいのか分からず、今こうやって書いていてようやく整理出来た気がする。
なんであんな笑顔で強くいられるのかと感じていたこと。
実際現地でも、自宅避難の方々は笑顔いっぱいだった。
それが余計に置かれてる状況のぎりぎりさを感じずにはいられなかったし、もはや笑っていないと転がってしまうんだ。
笑ってるひとほど優しくて、弱くて、辛いんだ。きっと。
他人に興味のない人は沢山いて、同じ様に今回の地震に何も感じないひともいるだろう。わたし達が出来ることは、そんな人たちの興味をひかせることではない。どこかで、何かしたいけどどうしよう、と見回しているひとを見付け、その人達をつなぐことがすべきことだ。この時代、コミュニティーとかつながるとかよく使われる言葉がある。グリーンバードに集まるひとは世話付きでひとたらしで、みな他人に興味津々のひとばかり。今こそすぐ8時間先にある東北の地に住む他人とつながる時だ。
現地に行けなくてもいい。こちらで出来ることはまだまだある。家族がいる人は守らなくてはならないし、自分を守る知恵をつけなくてはならない。お金と時間に余裕がある人は、是非行って泥かきや物資を運んで欲しい。それが自己満足でも、偽善でも必ず被災地の誰かの役に立つはずだ。
参考になれば・・・
ふんばろう東日本プロジェクト
http://fumbaro.org/
ボランティアプラットフォーム
http://b.volunteer-platform.org/
南三陸ホテル観洋のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/potpotto00/folder/55363.html
渡波の自分と同い年のママたち家族。
おじいちゃんの機転で無理矢理幼稚園から園児達をトラックの荷台に乗せ、津波から逃げることができたそう。
この震災でお亡くなりになった全ての方に謹んでお悔やみを申しあげます。
まだ天国に行けずどこかで待っている方にも、いつでも寄り添う気持ちです。
どうか、どうか、安らかにお眠りください。